adversity~賢くない私の生きてきた道~ -24ページ目

9。初潮

なんとなくは、わかっていたけど、まさか自分がこんなに早く来るとは思っていなかった。
だから3年生の時、高熱を出した時から出だした「帯下」の色が濃いんだと思っていた。
まだ子供なので、恥ずかしげも無く下着の洗濯はそのまま母に任せていた。
『ちよっと来なさい。』
母に呼ばれた。
『あんた、生理始まったんじゃない?これ、そうやわ。おめでとう。』
と、私の洗濯物の下着を見ながら言った。そして、急いで赤飯を買いに行ったようだ。
兄が帰ってきた。
『え?なんで今日、赤飯なん?』
と母に聞いていた。
『リカがね・・・。』
と言っただけで通じたようだ。
兄は一言
『早っ!!』
うん。私もそう思う。http://blog5.fc2.com/adversity/

アンダーグラウンド

7。ブラジャー

思い出したけど、私が初めてブラジャーをしたのは、小学3年生だった。
母親に
「胸にしこりみたいなのが出来て痛い。」
と言ったら、
「見せなさい」
と言うので、見せたら、
「あ~、もうあんたブラジャーせなあかんな。」
と、次の日にブラジャーを買ってきた。
それも、子供用のスポーツブラでは無く、ちゃんとホックの付いたピンクの水玉模様のブラジャーだった。
学校に付けて行くと、放課後、担任の女の先生に呼び出された。
「あのね、ブラジャー付けてるでしょ?服の後ろから透けて見えるみたい。他の女子の子がね、色々言ってるの。まだ早いんじゃない?」
と。
「でも、お母さんが付けなさいって言ったから付けてるんやけど。」
と、答えたら、
「じゃぁ、もう少し、派手じゃないスポーツブラっていうのが売ってるからそれを買ってもらいなさい。」

「・・・・・・はい。」邪魔臭いなぁ~と思いながら、返事をし、
その事を母に告げると、母は、
「なんであかんの?せっかくやったら可愛いの付けたいやんなぁ?」
同意を求めて来たけど、私は、ブラジャー自体どうでも良かった。

6。変な言い訳

小学校4年生の夏休み。
兄が中学生だったので、夏休みに母親に買ってきてもらったブリーチ剤で髪を金髪にしていた。 隣で見ていた私は残った液剤を自分の髪に塗った。
気が付いたら、きれいなメッシュになっていた。でも、これはお母さん帰って来たら怒られるなぁ~。と、後悔した。
母親が帰ってきて私の髪を見るなり、
「あんた、お兄ちゃんの毛染め使ったでしょ!お兄ちゃんは、坊主にすりゃいいからいいけど、あんた、夏休み終わったらどうすんの?」
って言われた。 黒く染めるんだろうな~。と思っていたら、
「学校行って、先生に髪の毛の色の事言われたら、お母さんとケンカしてビール頭から掛けられて、こんな色になりました。 って言いなさい。」
と言った。 うちの母親っておかしい。と、思った。
新学期が始まり、案の定先生に、髪の色の事を言われた。
「お母さんとケンカしてビールかけられたら、こんなになった。」
と、母の伝え通りそのまんま言ったら、
先生は、なんともいえない複雑な顔をして、
「わかりました。席に戻りなさい。」
と言った。



5。任侠人の最期

小学校6年生の時、祖父の病態が悪化した。母と叔母が毎日病院に、行っていたようだ。私も学校が昼までの土曜日は母と一緒に病院へ何度か行ったけど、病室には入らなかった。 2代目会長も何度か来ており、会うたびに、1万円くれた。
「ワシの誕生日は6月16日やったなぁ~」と母に言っていた。
それを待ってたかのように、祖父は6月16日に他界した。
でも、後で分かったのだけど、祖父の誕生日は6月20日だった。
私は、子供だから、先におばあちゃんの家に行って待ってなさい。
と言われた。祖父が家に着いた時は、顔に布がかぶせてあり、子供だから、なんとなく勝手に見たらいけない物だと思って、見なかった。
母が言うには、
「血の気の引いたおじいちゃんの体、刺青が浮かんで見えて綺麗だった。」
らしい。
葬儀は近くのお寺で行われた。 私は自分より歳が下の従兄弟の面倒を見るため、出席はしなかったけど、子供ながらに、お寺までの道、両方に代紋の入った戦闘服を着た若い衆がずらーっと並んでいて、親族が通ると
みんなが一斉に礼をする。不思議だった。
お花も凄い面々から来ていた。最寄の駅の周りからお寺までがフルスモークの高級外車の行列で、
現役時代を知らない私としては、祖父は本当に偉大な人だったんだ。と、実感した。
思い出もあまりないのに、葬儀が終わり、他の組の人の計らいで街宣車のスピーカーから祖父が好きでよく歌っていたフランク永井の曲が流れた時、涙があふれ出てきた。