adversity~賢くない私の生きてきた道~ -25ページ目
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4。任侠人

祖父は、誰が言うにも、極道の中の極道だ。映画の中の格好良いヤクザそのものだと言う。私たち孫にはそんな顔見せる事もなかったし、私が生まれた頃にはすでに現役を退いて、2代目に任せていたし・・・。私が知っていたのは、糖尿病を患っていた祖父の体に祖母がインシュリンを打つ時だけ、長袖の上着を脱ぐので、その時に手首まで入った刺青を見るときだけだった。それ以外は夏でも長袖に長ズボンのパジャマで、刺青を見せることはしなかった。
入退院を繰り返し、本宅に帰ってくるときもあれば、2号さんの家に居ることもあった。私と5歳年上の従姉妹の姉とで、いつもおじいちゃんに、おこづかいを貰いに、2号さんの家にも、病院にも行った。

私が小学校5年くらいになると、祖母の家に泊まりに行くことが多くなった。
其の頃になると、祖父もだいぶ弱っており、殆ど寝たきりだった。C型肝炎も患っていたので、相当だるかったのだろう・・・。
だけど、今まで、従姉妹の姉しか可愛がらなかった祖父が、
『お前、可愛くなってきたなぁ~。』
と、言った。それを母にいうと、母はすごくうれしそうだった。

3。暗い家庭

仕事に行かない父。父は外にも女が居た。母は、昼も夜も働き精神的にも参っていたのか、夜の仕事が休みの日でも、父が女の所に泊まり、帰って来ない日なんかは、独り暗い酒を飲み、涙を流していたのを、よく覚えている。 
兄は5歳上なので、その頃には、中学に入り、夜には友達と遊びに出かけることも多くなった。 私はその頃から、独りで晩ごはんを食べることが多くなってきた。家が経済的に恵まれてないのは、母親が昼夜働いてる事で分かっていたし、借金取りからの催促の電話も掛かってくるのに、
『母はいません。』と居留守を使うのも当たり前になっていた。学校で使うノートですら、母親に買ってと、言えなかった。
・・・・・なんだか小さいとき知らないおじさんとお母さんとで、ドライブに行ったな・・・。あれは、お母さんの浮気相手だったんだろうな。今になって思う。寂しかったんだろうな。

2。内弁慶

小学校に上がり、母親が水商売するようになると、毎夜
酔っ払って返って来る母に対して
お酒であれだけよく人が変われるもんだ。と、酒呑みを軽蔑していた。
父親は、まったくお酒を受け付けない体だったみたい。
いつも、兄と父とで留守番してたな。
いまになるとわかるような気がするけど、私は母親の感情の起伏の激しさに
いつも顔色を伺うようになってた。
だけど、ある日いつものように母親が酔って帰ってきて、またすぐに出かけようとした。その時いつもは我慢してたけど、
『行かないで!』
と母親に泣いて言っていたら、父親が
『子供が泣いてるときくらい家にいてあげろ。』
と、母に言い、母は家の外で待っていた友達に、
『チビがうるさいから今日はやめとくわ。』
と、誘いを断たので、今日は一緒に寝れるんだ。と、思っていたら
本当に憎らしいと思う目で母は私を睨んだ。 

1。お嬢

私は「お嬢」と呼ばれて育った。
良家の「お嬢」での意味じゃなく、祖父がその筋の人間だったから。
 
だからといって、恵まれては居なかった。うちの父は3人兄弟の末っ子。しかも、待望の男の子。祖母は「ボン」と呼び、大事に大事に育てました。そのうちその「ボン」も16歳になり、」うちの母親と出会いその間にまた可愛い「ボン」が産まれました、またまた祖母は息子のように、うちの兄を、「ボン」と呼び、甘やかせて育てました。結果、なまくら人間になってしまいました。
3人兄弟の長女も、祖父からかわいがられ、その娘の従姉妹の姉も、祖父から可愛がられました。

結局、私は中途半端な子で、父親は仕事に行かない。私が小学校に上がってすぐ、昼はスーパーのパート、夜はスナックに・・・。

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